2014年



ーー−3/4−ーー 蕎麦を延ばすテクニック


 
先週、町内会メンバーによる蕎麦作りの話を書いた。蕎麦打ちに関しては、全員素人だから、試行錯誤の繰り返しである。中には、ネットで調べて、実践する人もいる。私も、ネットでいろいろ知識を仕入れた。その中に、特筆すべきものがあった。

 蕎麦粉八に小麦粉二の割合で混ぜたものに水を加えて練る。その塊を、麺棒で延ばす。まず塊を手で押して円盤状にし、それを延ばして行くので、始めのうちは円形に広がって行く。ほどほど広がったら、それを四角形にする。四角形の方が、切ったときに長さが揃うからである。ところで、丸い物を麺棒で延ばして四角にできるのか?ありえそうもない話だが、そういうテクニックがあるという事を知った。

 麺棒で延ばす際に、均等の厚さにならず、麺棒の端に近い方が薄く、中央が厚くなる場合がある。麺棒に掛かる力がアンバランスだと、こうなる。では逆に、中央を薄くすることができるだろうか?真っ直ぐな麺棒を使う限り、そんな事は不可能に思える。しかし、それが出来るのである。そのテクニックが、丸い物を四角に伸ばす極意に繋がっている。

 そのテクニックはこうである。円形に延びたものを、麺棒に巻き付ける。巻き付けたままで、麺台の上に転がし、延ばして行く。そうして伸ばしたものを広げると、麺棒の中央に近かった部分が選択的に伸びて、薄くなっている。中央付近だけが延びるので、全体として、手前から向こうにかけて長い、菱形のような形になる。それを90度向きを変えて、再び麺棒に巻き付け、同様に延ばす。そして広げると、四角形になっている。結果的に、二回に分けて対角線の方向に延ばしたことになる。この技法を「ツノ出し」と呼ぶそうである。丸い状態からツノを出し、四角にするという意味だろう。

 麺棒に巻き付けて延ばすと、何故中央だけ延びるのか。それは、麺棒に巻き付けると、中央が太い形状になる。それを麺台の上で、軸を水平にして転がすと、太い中央付近だけ麺台に当たり、そこだけ延びるのである。誰が考え付いた事か分からないが、大したアイデアである。

 そのテクニックをネットで知り、理屈では理解した。しかし、本当にそうなるのか、疑わしい気持ちだった。2月の末に蕎麦会があったので、延ばしの作業をかって出た。そして、この「ツノ出し」を試してみた。そうしたら、見事に四角くなり、改めて驚いた。




ーーー3/11−−− 手品を楽しむ 


 趣味で手品をやっている人がいる。その人の話によると、一番やりにくい観客は、子供だという。子供は大人と違って先入観が無いから、騙され難いというのである。トリックのテクニックの一つは、相手に思い込みをさせること。それを利用して仕掛けに目が行かないようにする。ところが、子供は先入観が無く、思い込みをしにくい。それで、仕掛けがばれ易いとのことであった。

 それは一理あると思う。しかし、逆の面でのやり難さも有る。子供たちを相手に手品をやると、その手品が上手く決まっても、「そんなの不思議じゃないよ、タネがあるに決まってるんだから!」などと言う事がある。タネはばれていないのに、そんな事を言うのである。これも一つの先入観であるが、タネがばれるより質が悪い。そんな事を言われては、演じる方は気分がシラケてしまい、もはや手品を続行できない。子供らは、楽しみにしていた手品を、自らの発言で終了させる事になる。

 手品を楽しめるのは、大人である。手品にタネがあるのは、自明な事である。コインが消えたり、トランプのカードが入れ替わったりするのが、いちいち超常現象のはずがない。必ず仕掛けは有り、手品師がそれを気付かせぬように演じているだけなのだ。そういう事を承知の上で、騙される。それが手品の楽しみ方なのである。

 ところで上に述べた、「そんなの不思議じゃないよ」と言い放なった子供の態度。なまじ知恵を付けたために、言わば子供らしい素直さを失ったと観て良いだろう。まあそんな事は、成長段階にありがちな事であるから、特に咎める必要も無い。しかし我々大人でも、似たような事をやっていると言ったらどうだろう。

 本当は真相を知らないのに、知ったかぶりをする。「そんな事は、こういう事に決まっている」などと、決め付ける。あるいは、他人の事を、「あの人はああいう人だ」などと思い込みむ。そういう決め付けや思い込みは、子供のなまじの知恵と似たようなものではないか。もっともこちらは、成長段階とは言えないが。

 分からない事は、そのままにしておく事も大切なのである。いくら知ろうと思っても、知り得ない物がある。他人の本質などは、自分のそれと同様に、見極める事などできはしない。そういう手が届かない物の前では、不思議さと不明さに身をゆだねる事も必要ではないか。

 何でもかんでも知った気になって、「そんな事は分かっている」と言い切る傲慢さに、大きな危険が潜んでいると言ったら、言い過ぎだろうか。




ーーー3/18−−− ホテルのスタイル


 知り合いが、高原で小さなホテルを営んでいる。だいぶ前だが、その方面へ出掛けたついでに立ち寄った。コーヒーを飲みながらオーナーと話をしたのだが、話題の中にちょっと興味深いものがあった。

 そのホテルでは、若者のカップルやグループ、ましてや大学のゼミやサークルなどの宿泊は断っていると、オーナーは言った。たまたま同席していた若者は、それを聞いて少しムッとしたようだった。

 理由は、このホテルは熟年層が落ち着いた時間を過ごすためのものであり、若者が入り込むと雰囲気が崩れて、熟年のお客様の迷惑になるからという事だった。

 さらに説明は続いた。これは言わばヨーロッパスタイルだと。あちらでは、格調の高いリゾート・ホテルに泊まるのは熟年層であり、若者は安くて質素な宿屋や、ユースホステルに泊まるのだという。全部が全部そうでは無いだろうが、そういう傾向は確実にあると言う。

 そういう話は、私も別の方面から聞いたことがある。米国の若者は、新婚旅行に豪勢な海外旅行などへ行かず、湖のほとりの小さなロッジやバンガローに滞在し、一週間ほどかけて、二人だけで過ごすことが多いそうである。新婚旅行は、一般のリゾート旅行とは違うシチュエーションだとは思うが、日本の状況とはいささか違うようではある。

 若者は、バイタリティーがあり、創造力も旺盛だが、お金には余裕がない。そういう者は、高い金を払ってホテルに泊まるのではなく、創意工夫をして、野宿や民泊でしのぎながら旅行をする。その方がむしろ、人生勉強として役立つだろう。

 一方老人は、お金には余裕があるけれど、活力や行動力を要求される状況に身を置くのは辛い。だから、快適な環境が準備されたリゾート・ホテルに泊まる。そこでは、安心して、落ち着いた時間を過ごすことができる。長年働いた後にリタイヤし、残りの人生を夫婦で、あるいは友人たちと共に、静かに楽しみたいと願う老人にとって、リゾート・ホテルはそういうくつろぎと癒しの場なのである。

 異なる年齢層が、住み分けをする。それがあちらのやり方なのである。若者が騒ぎ、それを老人が不快そうに眺める。そんな状況は、どちらにとっても好ましい物では無い。わざわざお金を払って経験したくは無いのである。





ーーー3/25−−− 飯田市アートハウス


 
今月の13日から18日まで、飯田市内のカフェ・ギャラリーで展示会を行った。南信地方で展示会をやるのは初めてだったが、特筆すべき内容となった。

 ギャラリーを借りて展示会を行う場合、ギャラリー自体に集客力が無いと、来てくれる客は、案内状を出した知り合いだけと言う事になりがちである。新聞などに取り上げてもらっても、多くは期待できない。有名人ならともかく、一木工家の展示会に、興味を感じて足を運んでくれる一般人の割合は、少ないのである。

 仮に一般向けの宣伝が功を奏して、初対面の来場者があっても、その反応というものは、なかなか難しい場合が多い。ニーズがかみ合わない来場者の、冷ややかな態度には、辟易させられる事がある。

 その点、今回の展示会は、ちょっと違っていた。会場の「アートハウス」は、市の中央部から外れた住宅地にある。そのロケーションから、訪れる客のほとんどは常連である。毎日来るような人もいれば、週に一度の人もいる。たいていは、お茶を飲んだり、食事をしながら、雑談に興じる。そしてオーナーのSさんに促されて、ギャラリー・スペースに入って展示品を見る。まれに、展示会だけを目当てに来る人もいるようだが。

 いずれにせよ、Sさんの吸引力で人々が集まってくる。と言っても、Sさんはじっとしているわけではない。三週間かけて、150枚のDMをばらまいてくれた。新聞社などにも渡りを付けてくれた。熱心に広報活動をしてくれたのである。

 Sさんは、美術にしろ工芸にしろ、作者が思いを込めて作った作品を、写真やネット画像ではなく、現物で見てもらう事が大切だと考えている。その思いを実現すべく、30年ほど前にこのカフェ・ギャラリーを構えた。当時は果樹園の中の一軒家だったそうである。友人とか、知り合いの人たちは、いつ行き詰るかと、噂をし合ったとか。それが今では、飯田の文化の発信地と言われるようになった。

 そんなアートハウスだから、お客さんのレベルが高い。展示品を熱心に見てくれるし、目の付け所が的を得ている。そして、説明を求め、感想や意見を述べる。まるで以前からの知り合いのように、話が弾む。そして、小物など手頃な価格の品物なら、気に入れば迷わずに購入する。品物を生活の中で楽しむイメージを、素早く掴むことができる人たちなのである。

 夜になり、静かな時間帯になると、カウンターに腰を据える客がチラホラ現れた。私もSさんに誘われてカウンターに座る。山村の過疎化対策の活動をやっている人など、いろいろな立場の人がいて、日替わりで楽しい話題に参加させて頂いた。

 初対面の方との交流は、展示会の余禄のようで、実は本質的な部分でもある。こういう体験は、大いに励みとなり、今後の仕事に行かされるように思う。「それもこれもSさんのおかげです」と話したら、「これがアートハウスの財産かしら」とSさんは微笑んだ。








→Topへもどる